我国では、特に医療過誤など専門的知見を要する訴訟における裁判の長期化が、民事、刑事ともに大きな問題となっている。医学の専門教育も受けていない、臨床経験もない裁判官や弁護士が医療過誤のあらゆる分野に短期間に精通する事はいくら頭脳明晰であっても困難であり、現行制度ではどうしても裁判が長期化する。政府の司法制度改革審議会は医療訴訟裁判の迅速化、的確な判断の確保という観点から医師を裁判官として裁判合議体に取り込んでしまう専門参審制の導入を検討している。
医療過誤などの専門的知識を要する訴訟についてはイギリスやアメリカなどでは弁護士の高度専門化で対応している様だが、日本の法曹人口は人口10万人当たり17人と、米国352人、英国158人に比べて極端に少なく現状では裁判官や弁護士の高度専門分化は困難である。
フランスやドイツでは、専門家の早期鑑定や提訴前の鑑定を可能にするなど鑑定制度の改善で対応している様だ。我国でも医師が鑑定人として裁判で証言を求められる事も少なくないが、日常診療を犠牲にしてまで裁判所に出向きたいと思う医師は稀で、公正・中立な立場で客観的判断を下せる鑑定医の確保が問題となっている。
また、学問が発達すると専門分化する事は避け難く、鑑定医として客観的判断を下すには、その医療過誤の専門領域の10年以上の臨床経験が必要と思われる。専門外の領域、例えば眼科医が産婦人科領域の医療過誤について言及する事はもちろん、整形外科ひとつを採っても、股関節、膝関節、脊椎、手の外科などと細分化されており、股関節を専門とする整形外科医が脊椎の手術の医療過誤について言及する事も憚られるのが現状である。
導入が検討されている専門参審制では医師は裁判所の構成員として拘束されるので専門参審医の確保は鑑定医の確保より更に困難だろう。また、仮に被告と同業者である医師が専門参審制で医療訴訟の裁判官的な役割を果たす場合は、原告が一般人である場合、結果として判決が被告寄りという心証を抱く事が多いかもしれない。
10年以上臨床医をやっていて、誤診や合併症を1度も冒した事が無い医師は居ないと断言できるので、基本的には次の様に判断する医師が多いと思われる。
まず、医療過誤には2通りある。1つは都立広尾病院の消毒薬の静脈注射、横浜市大病院の手術患者の取り違え、東海大病院の経口投与と静注投与のミス等の完全なケアレスミスである。これらのケアレスミス医療過誤については100%医療側に過失がある。
もう1つは、誤診や手術時に誤って神経や血管を損傷してしまうなど人間がやる限りゼロにできないミスや、骨折の観血手術における術後感染や消化器系手術における縫合不全といった数%の確立で必ず発生する合併症である。これらについては診療時に適切なインフォームドコンセントが為されていれば医療側に過失はないと考える。
何故なら、誤診や術中・術後の合併症はいわゆる「難しい症例」に発生し易く、これを医療過誤と判定すると「難しい症例」の治療にチャレンジしようとする医師は居なくなり、却って多くの患者が不利益を被る結果を招く。トラブルの多さから小児を診ようという医師が減っている現実がそれを示している。
いずれにせよ、医療過誤などの専門的知識を要する裁判の迅速化と充実には医師の参加は不可欠で、医師を専門参審員として拘束するのが困難な我国の現状では鑑定制度の改善ともう少し法曹人口を増やして裁判官と弁護士の専門化で対応する事になるだろう。
【医療過誤に対する専門参審制の導入について】
ばんぶー 2000年8月号