2013年12月31日

 【日本の若者は日本人である事に誇りを持てるのか?

 2020年の東京オリンピック開催が決まったが、その頃には日本は中国の省の一つかもしれない。

 毛沢東は「国を滅ぼすのに武器はいらない、唯、国民からプライドを奪えば良い」と言ったが、「プライド(誇り)」の反対語は「保身」だと思う。

 北朝鮮の日本人拉致事件に対する日本の態度は自分の娘が暴漢に襲われている時に、自らが戦うことなく隣のオッサン、つまりアメリカに助けを求める事しかできない親父の様なもので、こんな親父の姿を見て息子(=日本の若者達)は誇りを持てるだろうか?
 そして隣のオッサンが暴漢から反撃を受けた時に助けに入るのが集団的自衛権だが、助けに来てくれた隣人を見殺しにする親父の姿を見て日本の若者達が誇りを持てるだろうか?

 英国の哲学者、ジョン・スチュワート・ミルは「何のためにも戦う事をしない人間、つまり自分自身の安全以上に大切なものは無いと考える人間は、みじめな生き物である」と言ったが、国防という国家にとって最も基本的な事を他国に依存している日本は独立国家と言えるのだろうか?


 【国とは何か?】

 国とは何だろうか?
 埼玉県の人口720万人未満の国は沢山あり、人口が多ければ国という訳ではない。「国と地方自治体との違い」を考えれば国の定義が明らかになる。

 自由と権利の裏には義務と責任がある。民主国家に於ける自由と権利は言論の自由と参政権であり、それに対する国民の義務と責任が納税と防衛である原則はギリシャ・ローマの時代から現代の欧米先進国に至るまで普遍である。

 地方自治体には納税の義務があるが、防衛の義務は無い。つまり、もし埼玉県が今の日本政府が頼りないから、防衛を県民自らの手で行うならば埼玉県は国である。

 強大だったローマ帝国が滅んだのは国防を自らの手で行う事無く傭兵に依存したからで、米国の共和党も民主党も、英国の保守党も労働党も「自分の国は自分で守る」であり、独立国家では他国の軍が未来永劫駐留するという発想は無い。

 第2次大戦後の米国の日本に対する占領政策は完全自治を認めても、防衛は認めず、宗主国が戦争する時には基地と戦費を提供させたローマ帝国の属州統治と全く同じである。


 【人権宣言の対象は白人のみ】

 1789年のフランス革命で「人は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」という人権宣言が議決されたが、ここで人というのは白人の男性のみで、当時の女性には白人でも参政権は無く、奴隷制度は存続し、有色人種に至っては完全な人間として見なされていない。

 それはその後の19〜20世紀の欧米列強のアジア・アフリカへの植民地政策を見れば明らかであり、リンカーンの奴隷解放宣言が1863年、女性が初めて参政権を獲得したのは1893年である。

 欧米列強の植民地政策時代に、近代国家として生まれてまもない有色人種の国日本が、当時世界最大・最強と言われたロシアのバルチック艦隊を撃沈して、白人帝国ロシアに勝った日露戦争は黄色人種が白人をおびやかす事を警戒する黄禍論を欧米に広めた。

 第2次大戦前、アジアの中で欧米列強から独立を保っていたのは日本とタイだけで、もし日本が大東亜戦争を起こさなければインドをはじめとする多くのアジアの国々は現在も欧米列強の植民地のままかもしれないのである。

 米国はハルノートを突き付けて先に日本に手を挙げさせ、明治以降、白人国家と互角に渡り合ってきた殆ど唯一の有色人種の国を叩きつぶした訳だが、米国は何故、原爆をヒトラーのドイツベルリンでは無く、日本に落としたのでろうか?それもウラニウムとプルトニウムを1発ずつ人体実験の様に。それはドイツが白人の国で日本が有色人種の国だからである。

 オリンピックに於いてもバレーボールやスキーのジャンプなどは日本人が金メダルを取るとルールを変えられてしまった。


 【米国の恐れる物】

 今、米国が一番恐れるのはアラーの神のために死ねるイスラムのテロリストだが、当時の米国が一番、恐れたのは「国のために死ねる日本の特攻隊」だった。

 国のために死ねる日本人を作らないためにGHQは「日本人の心に日本は戦争という悪い事をしましたという罪悪感を植えつけるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」を実施し、未だにこれが日本のマスメディアと教育現場に生き続けている。

 安倍総理の靖国参拝に対して中国・韓国と日本のマスメディアが「けしからん」の大合唱だが、これは内政干渉以外の何物でも無く動じる必要は無い。参拝しなくても両国の反日姿勢は変わらないし、韓国のアンチ日本はアンチ巨人の様なものである。
 米国にとっても日本がシャキッとするのは望ましくなく骨抜きの属国であり続けるの都合が良いのである。

 2013年を終えるにあたり思う所を書いてみました。


2013年を終えるにあたって